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- 2005/10/23(Sun) -
前章。

僕は緊張しているんだな。

――と、僕はどこか傍観するように思った。
身体が異常です。
まず顔は赤いだろう。自分でも分かる。鼻の頭から耳の端まで真っ赤なのだろう。触れば熱が伝わってくるぐらいに……。それに、熱すぎるぐらいの血潮が流れる心臓はすごい速さで脈打ち、息はどこか荒く、肩が上下に動き、足下は定まらず、視線はどこを見ているかも分からない。
身体は異常なのに周りは普通なのです。正常です。
僕の立っている校舎は夕日で紅くなっているのに、僕と違いその紅さは冷静さを孕んでいる。外で聞こえてくる野球部の声もどこか遠くのことのように聞こえる。
僕はそろりそろりと、どこかの動物のようにゆっくりと手を伸ばし、じっとりと汗をかいた手が下駄箱の把手を掴んだ。掴んだ手は力を伝え、きしりと小さく、大きく戸を軋ませながら口を開けさせた。
そこには、まだ使い始めて半年もたっていない白い上履きがあった。
肩が、把手を掴んだままだった手が震える。ゆっくりと手を離し、その手をブレザーのポケットに入れられ、白い絹目の封筒を取り出した。
封筒の前面に微妙に下手でかしこまった、震えた文字が書かれている。『甲田玲佳様』と。そして、その封筒を裏返し、端に小さく書かれた、書きなれた自分の名前『高城瑞樹』。このなんともおめでたい封筒。おめでたすぎて熨斗でもつけていいような感じだ。
その、熨斗をつけていなくてもおめでたすぎる、封筒を、ゆっくりと、手を伸ばし、本当にゆっくりと、下駄箱上履きの上に、置こうとしたとき、遠くから音がした。
身体が竦み、跳ね上がり、下駄箱の中に半分収まっていた手は端の金属にしたたかに打ちつけ、赤くなりそうなほどに打ち付けて、金を打つ大きな音を立てた。
頭が真っ白になった。
大急ぎで手を痛みか、緊張かふるふるさせながら手汗で纏わりつく封筒を置いて、バタンと大きな音で戸を閉め、逃走用にあらかじめ履いてあった外履きのスニーカーで走りだした。
六月初めの空気は少しだけ肌寒く、頬と手ににじんだ汗を冷やし、上気した頬を鎮めた。風は僕の校則よりもちょっとだけ長い黒髪の毛先を躍らせた。

1 始まりの梅雨、紫陽花の花。

――今日は朝から気分が悪い。
  いっそ、登校拒否ななるぐらいに。
どうしようか? 半分を過ぎた通学路を歩きながら思う。今ならいろんな人に見られながらも人の流れに逆らって帰ることもできる。
――でもさ、この気持ち。気分が悪いのに、少しだけ気分がいいんだよね。
そこが、いじの悪いところ。
返事は来てるだろうか? さすがに一日、昨日の夕方入れたばかりじゃそれは無いだろう。
じゃあ、迷惑になっていないだろうか? 大いにその可能性はあり、且つ、否定の材料と肯定の材料が無い。
そんな考えてもどうすることもできない結果がすべてのことを考えながら歩いていたらいつの間にか校門の前についていた。
微妙に陰鬱な気分のままでなし崩し的に校門をくぐり、いつしか下駄箱の前に来ていた。そして、あまり人目につかないよう、身体の影で下駄箱を隠しながら開けようとする。まさか、そのまま戻されてるなんてことは無いよね……?
気が進まないが仕方なしに戸を開けて中を見る。
中にはまだ白さを保つ上履きと真っ白い絹目の封筒が入っていた。
何故か顔が赤くなる。封筒を握りつぶしたいと思いながら、さっと掴んでポケットにねじ込み外履きと上履きを入れ替えて何事も無かったように教室に向かう。
一年の一階の教室。正面玄関から三つ目の教室に入り所定の席に鞄を置く。そのまま、椅子を引き座ろうと思ったが、やめた。
半分腰を下ろそうとした格好のまま、姿勢を戻し歩き出す。
向かったのは二個先の教室の目の前にある男子トイレ。夏になると窓と戸を開けるので大層臭いそうだ。
初夏の食中毒の多発する時期、じめじめして雑菌と黴の繁殖しやすい時期にトイレの個室に入る。
なかで洋式便座に腰を下ろそうとしたが、学校の便座というのは大概汚いものなので蓋を下ろしてその上にヤクザ座りをした。
そして、ポケットから疑惑の封筒を出した。
下駄箱から取り出すときにちょっとだけ違和感があった。気になって確かめてみると、それは僕の出した封筒じゃなくて、違う封筒だった。どこが違うのかというと……。まず、絹目の白い封筒なのは同じだが、僕の出したのは縦の封筒、返ってきたのは横の封筒だった。まず名前の向きが違うところで気がつくべきだった。
ペーパーナイフは無い。仕方が無いので上のところを神経質に破り取る。
しかし、神経質な作業は遅い。僕はその緩慢な動作に苛立つ。それでも、ゆっくりと開けた封筒から便箋を取り出す。
便箋をばさっ。と言わせるぐらいの勢いで広げる。
そこには硬質で丁寧な文字で書かれていた。短く、簡潔に。
『友達』
一瞬意味が分からなかった。それでほかに何か書いていないかと便箋を裏返し、光に透かし。封筒の中を覗きこみ、これもまた光に透かす。しかし、そこには何も書いておらず、何も入っていなかった。
焦る。どういうことだろうか。ただ友達になりたいということか? それとも、友達といってやんわりと断りたいということだろうか? 友達からはじめたいということか。
便座の上でヤクザ座りをしながら悩んでいたら、予鈴がなった。便箋をいったん封筒に仕舞って、内ポケットに戻した。少し早足で教室に戻る。

しばらくして……。
――時間は放課後。
僕はもう一通手紙が入っていないかと疑いながら下駄箱を覗きこんだ。そこにはいつも通り乱雑に突っ込まれた学校指定の外履きが入っているだけだった。
まあ、仕方が無いと思い、微妙にがっかりとしながら校門をくぐり外に出ると、
――校門脇の花壇に甲田玲佳が座っていた。

 2

「さあ、行きましょうか」
軽く手を差し伸べる。前振りなしで、今まで話してたかのように声をかけてきた。
僕は頭の中が真っ白になって何を言っていたのか分からなかった。
「なにを固まっているの? わたしたちは友達でしょ」
「う、うん……」
甲田玲佳は何を言っているんだ? あの手紙のことを思い出す。『友達』そう書いてあった。
その言葉は直球で、何の偽りも無く、言葉どおりの意味だった。
僕は甲田玲佳に手を引かれ歩き出す。
どこへ向かっているの?

特に会話も無く、僕が甲田玲佳についていくと彼女は閑静な住宅街に入っていった。
ただし、閑静といってもブルジョアジーたちの邸宅が並んでいるというわけではなく、まだ空き家が多い新興の住宅地という意味だ。
甲田玲佳はその家々が建ち並ぶ中で異彩を放っている一角に近づいていった。
その家は見た目からして違う。
まず、第一に周りが二階建ての中その家だけが平屋であった。
そして、周りが白く輝いている外壁と屋根の中、その家だけは所々がトタン板で補強されている。
要するに、町の所々にある古い平屋の建物のことだ。
甲田玲佳は戸の前に立つと制服のポケットを漁りながら言う。
「ここは誰も居ないから気にしないでね」
何をだ? そして、何にだ。
まるで、僕に何か期待させたいような言葉だ……。
そう言いながらポケットの中を漁っていた手が止まり、また古そうな鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。
古い鍵を回すと鍵はがちゃりと必要以上の音を立て、横開きの戸も、必要以上の音を立てた。
見た目からしてボロい家はもちろんなかもボロい。
所々がひび割れたコンクリートの沓脱で、甲田玲佳は乱雑に靴を脱ぎ框に敷かれたマットに放られたもこっ、としたスリッパに足を突っ込んだ。そして、脇に備え付けられている下駄箱の中から来客用かとおもわれる綺麗なすらっ、としたスリッパを出して僕の足下に置いた。
僕は甲田玲佳に倣ってスリッパに足を突っ込み、廊下を歩く彼女についていく。
廊下を歩く二つの足音。奥の扉まで十歩と無いのに、その距離は随分と長く感じる。緊張感の無いとたとた、という足音と、緊張して必要以上の力がこもったどたどたという足音。
一番奥の扉の先には古ぼけたキッチンがあり、その右隣には開けっぱなしの襖があって、その奥には1Kの平屋の居間があった。半開きの襖を開いて甲田玲佳は中に招き入れる。
居間には畳に似合わないベッドがあって、あといくつかの家具が在ったが、そのほとんどは洋風だった。甲田玲佳は大儀そうに、背負っていた鞄をベッドの上に放って、そこに腰を下ろし、その辺に敷かれている座布団を指差した。僕は丁度いい位置に敷きなおして、座った。
甲田玲佳はなかなか戻ってこない。手持ち無沙汰で、趣味が悪いとは思いながらも部屋を見わたす。八畳の部屋は和洋折衷。――というか、和洋混合。ベッド、卓袱台、数枚の座布団、どこかの風景が描かれたタペストリー、雑然とした本棚、埃をかぶっているテレビ、ノートパソコン、温故知新と書かれた掛け軸、洋箪笥、ふすま、カーテン、その他……。それらが雑然と並び、秩序を作っている。
それらを漠然と見わたしているうちに甲田玲佳が戻ってきた。僕の顔はこわばっているだろうか? 脈が上がる? 甲田玲佳は手にお盆をもって、上には二つの麦茶とそのボトル、お茶請けのせんべいが載せられている。
「どうぞ……」
そういって差し出された麦茶に僕は口をつける。麦茶の味。僕はほかの人の家ではじめた飲んだ麦茶に結構違和感を覚えるけど、ここのはそうでもない。コップの半分ほどの飲む。そして、両者とも喋らない。カタン、とコップを置く音が虚ろに響く。
「そうね、わたしのことは玲佳って呼んでいいから」沈黙に耐えられないというように吐き出した言葉。
「じゃあ、僕のことも――」
「貴女のことは瑞樹って呼ぶわ」今度はちゃんとした意志を持って、いたずらするように。
 でも、どうだろうか? まだろくに話したこともないし、第一――あ―――っもう!
と、脳みその中でぐわぐわと訳の分からない言葉が氾濫して、もう、もう。訳わかんなくなって――。
「ねえ、早く呼んでよ〝玲佳〟って」
目をらんらんと輝かせ、きらきらとした瞳を向ける。
もう、ちりちりと脳神経が焼ききれそうなほどに、頭がぐらぐらする。
「あ、の。玲佳?」
「はい、なんでしょうか?」
ああ―――っ。また訳の分からない悲鳴が上がる。目の前でにっこり、と大輪の蘭の花のように、笑ってみせた玲佳に僕はもう……。
頭をかきむしってうしろに倒れた。
「ねえ、だいじょうぶ?」
 そう、見上げた先には玲佳がいて、全然、まったく悪びれずに言ってきた。
「まっ、宿題でもやろうか?」
紛らわすように言い、僕はうなずいて。玲佳はベッドの上の鞄を漁りながら、英語の教科書・ノート・プリント・筆入れを出した。
その動作になんとなく見とれながら、はっと気がついて自分も勉強道具を取り出した。

その後。いまいち集中できないまま時間は過ぎて……。

かりかりと伸が紙を擦る音が止まった。ペンを持っていない左手で髪をいじくる。
宿題が終わったのだろうか。玲佳は教科書・ノートを閉じて、シャーペンを筆入れにしまった。
立ち上がりながら、「今日はこれぐらいにしておきましょう。それから、晩御飯食べていく?」
唐突な言葉に驚いた。
「いい、遠慮しとく」
しどろもどろになりながら答えた。晩御飯は食べていきたいけど、何か、いけないような気がする。
「じゃあ……そろそろ帰るね」
この言葉は少し冷たかっただろうか?
「うん。また明日」
と言いながら、狭い家の中を見送ってくれた。



夜になると、朝になって、
夜になったからには、朝が必ず来る。
そういうわけで、朝になったら学校にいかなくてはいけない。
「はあ……」
通学路を歩きながら、溜息をこぼした。
「はあぁ……」
また、さっきよりも深い溜息。
学校行きたくない……。あー。やだな。玲佳と会ったらどうしよう……?
なんて、心の中でこぼしながら歩いていたら校門が見えてきた。
「あぁあ……………」
「なに溜息なんてついてるのさ? 今日も一日頑張りましょう」
なんて声が掛かってきた。
「うん」
つい反射で答えてしまう。さすが集団社会で生きる人間。
――で、振り返ると、
「おはようございます。瑞樹君」
「――っ―――ぁ」
驚いて声も出ない。
途端に身体が固まって、頬が上気して、〝うぁ、あぅ〟声にならない。頭の中で声が響く。
「とまってると遅刻するよ」
そう言って僕の手首をがっちり掴んで歩き出す。
恥ずかしいなんて思うほど頭が回らない。周りの人に驚き、好奇、冷やかしの視線をあたえられながら引っ張られていく。
「はい、ここからは自分で歩きましょう」校門に着いて手を離された。勢いで前につんのめった。
「どうしたの? ぼんやりしてるし、自分で動けないし」
〝玲佳のせい〟なんて言えない。
「うん。えっと。あの」どもりながらうやむやに答える。
「ふうん。そう。言いたくないんだ……そう……。恋煩い?」
〝うわぁ。露骨だな〟なんて思うほど、頬が赤くなった。
うつむいて、喋らないで歩き出す。
「ちょっと。怒んないでよ」
ぼやきながらぱたぱたと小走りで近づいてくる玲佳。怒ってないよ。
隣についてきた玲佳に、
「怒ってないよ……」
消え入るような声で。言った。
「恥ずかしい?」
〝どうして、こんなに直球で訊いてくるのか〟そこまで思うほどにストレート。
「わざとだよ。何かいじめたくなるし」
「まあ、これからはあんまりしないからなんか喋ってよ」
「うん。うん」
「まあ、仕方ないか」
太陽のような玲佳。
あんまり喋んないで下駄箱に行って、別れた。

放課後。
きっかり六時間の授業に掃除を終えて、後は帰るだけ。
また、下駄箱に手紙が入っていた。茶封筒が一つ下駄箱を開けると入っていた。
人がいなかったから一応開けてみた。思ったとおり玲佳からのもの。

  放課後自転車屋に行くから着いてきて。
  校門の前で待ってる。
                     玲佳
                          』
短い。別に直接言えば良いのに。人がいるところだと嫌だけど。
時間が書いてないけど今いるだろうか? 若干不安になりながら手紙を鞄に仕舞って校門に向かう。とことことことこ、あんまり長くないけど。
玲佳は校門の前の花壇に座って待っていた。
「結構早かったね」
「直接言えば、待たなくても良かったのに」
「べつに、まあね」
お茶を濁された。言いたくないみたいだし良いか。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
歩きながら喋ったり、喋んなかったり、急に黙ってしまったり。でも、気まずさはなかった。
玲佳の家は、学校から少々遠くとは言いがたく徒歩一時間半ほど。そんな玲佳が何で自転車で来ないのかといえば、自転車を修理に出してたからだそうだ。
十五分ほど歩いて。
〝半分傾いたような店だな〟って、第一印象がそうな感じなほど寂れていた。
店の前には古くてフレームが錆びきった自転車から、真新しい一分の曇りのないものまで。がらがら、きいきいと軋む戸を鞭打ち、開けると中にも沢山の自転車があった。それに、見上げるとタイヤのフレームやら、チューブやら――が、ぶら下がっている。
「こんにちはー。甲田ですが」
「はいはーい」
店の奥からオジサンの声が聞こえてきた。
台帳をめくりながら山とある自転車の中から比較的新しい目の物を取り出した。
「じゃあ、中までパンクしてたのでチューブごと交換しときました。
「お代は五千円になります」
鞄から財布を取り出して、
「丁度です」
「――ところで、後ろの兄ちゃんはコレかい?」
なんて、隠すような仕草で小指を立てて訊いている。
玲佳は愛想笑いをしながら首を横に振っている。
あっ、なんか悲しい。

「ありがとうございましたー」
うしろから声をかけられながら店を出て行く。
「じゃあ、行こうか? 乗る?」
荷物を置く部分をバンバンと叩いて示している。
でも、男としては自分がこがないと。って考えたりして……。
「どうする?」
笑いかけてきた。
「いいよ。僕がこぐ」
「いいって。こぎたいし」
「じゃあ、ありがたく」
「早く乗って」
つい同意してしまった。急かすように言われたので乗ろうとしたら。
「――乗れたらね」
タイヤがざっとアスファルトを擦り走り出す。
「ちょ。玲佳待って……!」
なぜか加速が良くていきなり追いつけないような速度になっている。僕は走って追いつこうとする。なぜか玲佳が速度を緩めてくれた。僕が荷物置きの部分を掴むと……。いきなり自転車は急停止して……。
車輪が僕の身体に衝突して、つんのめって、後ろに倒れた。
どさ。と、軽い音がして背中がアスファルトに打ちつけられる。とっさに首を上げたので頭は打たなかったけど、肺の空気が外に出て僕はげほげほと咳き込む。
「あはは。ごめん、つい」
ついってなに? ついって?
「今度はちゃんと乗っていいよ」
差し出された荷物置きに腰をかける。それと同時にいつの間にか曇ってきていた空から雨粒が降ってきた。
「瑞樹、急ぐね」「うん」
短い会話を交わして自転車はすべるように走り出した。

 4

急いで帰ったけど、やっぱり玲佳の家に着くころにはびしょ濡れになっていた。ばたばたと家の中に入り、入り口で困る。
「どうしよっか……」
玲佳は髪から、服から水を滴らせている。黒い髪がぬれて一層黒く、深い緑よりもさらに深い黒。白いブラウスが身体に張り付き肌色が透けている。黒と白との器に入った玲佳はより綺麗に見える。僕はその場で固まった。
ぴちゃんと、滴った水かいつの間にか水溜りを作っている。身体から落ちた雫がじわじわと水溜りを広げる。濡れたまま入るわけにはいかないと沓脱で悩んでいるうちに、足下には大きな水溜りが出来ていた。
「仕方ないか」
そうこぼして、ぬれた身体のまま玲佳は家の中に入っていった。ひたひたという足音が響く。暗い廊下。足音がわびしく、響く。
手持ち無沙汰で髪をいじったり、開襟した夏服のボタンを開けて風を服の中に入れる。「ふぇくち」寒かったのかくしゃみが出た。もじもじと足を動かしたり、手をいじくったり。
家の奥からぺたぺたと足音が近づいてきた。手に白いタオルを持って微笑っている
「はい」
牡丹のような笑みで手渡されたタオル。やわらかくて、ふんわりしてた。手渡されたタオルで頭をくしゃくしゃと拭く。そしたら玲佳の手のひらが僕の手の甲を捉え、乱暴に動かす。
「れっ、玲佳。やめて――」
「いいから!」
それから一通り拭き終えてようやく家に上がることを許された。
ぺたぺた、ひたひた。足音がしている。なんとなくどっちも喋らないまま居間に行った。
「――ふぇくしゅ」またくしゃみが出た。
「寒い? お茶沸かしてくる」
返事も聞かないまま台所に行ってしまった。ガチャガチャと薬缶を動かしたり、茶筒と急須を動かしたり。その音が聞こえてくる。さっきと同じで玲佳がいなくなってから僕はすることがない。仕方ないから中身がぬれていないかと鞄を開けてみたりする、特に変わったところもなくて残念。
「もうすぐで沸くから待っててね」
「あ、ああ。うん」
しばらくして玲佳が戻ってきた。
「あったかいお茶です」
「どうもありがとうございます」
なんとなく恭しく礼を言う。
「今日は宿題もってきた?」
「いや、今日はなかった」
何か会話が乾燥してる。
玲佳は宿題をしている。僕は暇つぶしにと渡された森鴎外の高瀬舟を読んでいる。僕は時々玲佳の顔を盗み見る。伏せた顔に濡れた黒髪がかかり、ときどき邪魔そうによける。よけた髪の毛先を指先に絡めたりしていじったりもしている。ふっと、玲佳は不思議そうに顔を上げた。玲佳を見ていた僕は慌てて顔をそらす。
「なに?」
「なんでもない」
そのやり取りが妙に気恥ずかしい。僕は顔を背け本に集中しようとするけど、やはり玲佳のほうを見てしまう。
そうしているうちに、時間が過ぎて部屋が暗くなる。雨が降っているのでいつもより早く暗くなった。玲佳は宿題が終わったのか、ノートと教科書を閉じて、立ち上がり電気をつけた。パチン、というスイッチの音と、パチ、パチン。という蛍光灯の点滅する音。急に明るくなり僕の目を刺激する。気付けば僕の身体も乾いている。どのくらい経っただろうか?
「今日は食べていく?」
主語を省いた言葉に僕は意味を理解できなかった。
「今日は夕食食べていく?」
言い直してくれた。そして、視線には無言の圧力が付加されている。
なんて答えれば良いのだろう? 誘われてるし、食べていくべきか?
「……………」
僕が黙っていると、玲佳はその沈黙を勝手に理解して……。
「じゃあ、食べていくのね」
と、言った。もう決定してしまったようだ。

しばらく経って……。

結局夕食をいただいていくことになったので、行儀正しく座布団にすわり本を読んで待っている。何か手伝おうとすると追い返されるので、静かにしておく。台所からはかちゃかちゃ。皿かと思われる音がしてる。
「はふぇ……」
妙な溜息が出る。食事をおごってくれるのはありがたいけど、けど、けど……。
開いている本に意識は一分も向いていない。
「どうしよう……?」という問いを心の中でぐるぐる回して、堂々巡り。さっきから新しい案は浮かんでこない。
「はふぅ………」
どうすれば良いの? そう思ってたら台所からいいにおいがしてきた。なんだか思い出せない。中華だっけ? いい加減卓袱台の上に置いた肘が痛くなってきたので上げるとじんじん、ぴえぴりした痛みがする。玲佳が戻ってくるまでに心を落ち着かせようと、手を見て集中する。
「もうすぐ出来るよ」
びっくう、と肩を跳ね上げ、後ろを振り返る。
エプロン姿の玲佳がいた。若草色で真ん中にポケットがついて、手には中華なべを持っている。
その言葉どおり、すぐに料理は出来たようだ。まず、大皿に載った酢豚、眼鏡が曇りそうなほどに、もうもうと白煙をあげている。一度台所に戻り手には大きなお盆。ご飯、コーンポタージュ、青菜のおひたしが乗っている。無国籍だ。
それらを僕の前と、玲佳の席なのか、ベッドを背もたれにした位置に置く。玲佳は座って、手を合わせ食べようとしたけど、箸を忘れたことに気付き台所へ駆けていった。そのとき、少しだけ動いた柳眉は流麗端麗可憐――だと長いので美しかった。

そこから少し記憶が跳んで、気付いたら食べ終わってた。
玲佳は食べ終わった満足感で呆けたように視線が定まらない。背もたれにしているベッドに力無く寄りかかり、両手両足をそこら辺に投げている。〝よく人がいる前でそんな格好出来るね……〟って感じだ。
「ふぅ……、」短く息を吐いて、やっとのように、
「瑞樹……これからどうする……?」
いかにも緩慢に怠惰に、気だるげに話しかけてきた。格好といい、声音といい無防備すぎるぐらい、無防備だ。それに、目の端が下がり、とても眠そうだ。
「よく人がいる前でそんな格好出来るね……」つい考えてたことが口から出てしまった。
怒られる! と、思ったけど。まったく気にしていないようだ。たぶん寝てる。
「玲佳も眠そうだし、もう帰るよ」
「……わかった」
僕の言葉に反応するまで一拍あったし、やっぱり寝てる。
僕を見送ろうとしてか、立ち上がろうとして――でも立てない。
「いいから、転んじゃうし」
「じゃあ、玄関までいけないけど、さよなら」
「はい、お邪魔しました。酢豚おいしかったです」
言い残して、襖から出ていく。襖の奥から覗いてくる玲佳に後ろ髪引かれるけど、それを振り切って帰る。
最後に玄関で「お邪魔しました」と、もう一度言って帰る。


2 秋。台風とか。

 1

季節は梅雨を越えて、夏を通り越し、秋になった。
そのころには、僕と玲佳は結構仲良くなって――あくまで友達として。
なれた二人の関係は随分と楽になっていた。

「瑞樹―――。お茶入れて――――」
なにやら語尾が可笑しくしゃがれ歪んだ声をかけてきた。それもそのはずで、首は可笑しく上のほうに曲がっている。
「はいはい」
僕は台所に向かう。なんかいいように使われてる、とは思うけど、別に構わないと思ってしまう。流し台に立つ。マットを敷いていない床は擦れて色が変わっている。ぼんやりと眺めながら薬缶に水を注ぐ。水が金属を打つ音が響き、次第に水の音に替わっていく。床と音をぼんやりと感じていたら、薬缶には十分すぎるほど水が溜まっていた。蓋をして火にかける。
「ふぅ」
居間のほうを振り返ると玲佳はだるだるとした姿勢に疲れたのか、今度は卓袱台に突っ伏している。顔は見えないけどきっと寝ているだろう。ゆっくりと上下する背中や、光を弾く髪、半袖から覗く白い腕。
なんとなく、玲佳のためならお茶を淹れるぐらいはいいと思ってしまう。
お湯が沸騰しきらないうちに急須と湯飲みを用意する。白くてすべすべした湯飲み。薬缶が音を立て始める、口から白煙を上げている。そろそろかなと思い、急須と湯飲みにお湯を注ぎ、温める。温まったら急須のお湯を捨てて、新しいお湯に茶葉を入れる。煎茶のにおいがする。しばらく蒸らして、今度は湯飲みのお湯を捨てお茶を淹れる。
お盆にそれらを乗せて玲佳のところに行く。
「どうぞ」
「……………」
返事が無い。仕方なくお茶を置いて自分も座る。見ると、玲佳はとても幸せそうにしている。緩んだ顔は眦と唇が垂れ下がり、頬の筋肉は弛緩している。そう言うと、トリップしているようだがそんな感じではない。〝幸せを感じている〟って感じ。
枕にしていた腕から頭を上げる。
「ありがと」
そう言って、湯飲みを取り口に運ぶ。
ずるずるとお茶をすする音がする。一口飲んで、口を離したかと思ったら、もう一度口に運び大きく傾け、一気飲みした。
僕は自分湯飲みに視線を注いでいだまま。ちなみに、〝自分の〟というのは、持参した湯のみだ。
エメラルドに透明な雫を落としたような緑。
揺らめき、たゆたう液体が、縁から縁へと動き、ぶつかりあい真ん中で波を立てている。
ことん、と湯飲みを置く音がした。黒ずんだ卓袱台の上に置かれた湯飲み。熱いはずなのに一気飲みされている。玲佳は赤い唇を手の甲で拭う。視線を向けて〝もう一杯〟と要求される。急須を掴み、お茶を注ぐ。茶渋のついた白磁の口から緑の液体が溢れ、湯飲みを満たす。
次の一杯を、ゆっくりと楽しむように飲む。ほっこりした笑みを見せる。
「うん、うん……」
幸せそうに、ふにゃけてる。
何か分からないけど、幸せそうだ。僕のお茶で幸せになってくれるなら、いくらでも淹れるよ。心の中で呟く。
湯飲みを握って、座ったまま、動かない。僕は卓袱台に凭れて玲佳のほうを見る。
――やっぱり幸せみたい。
ところで、外は嵐だ。
台風が上陸した九月の半ば。
こうしているときも、このボロ家に吹き付けられる雨風がごうごうと音を上げている。
強弱をつけて、音が響く。
そんな外の様子にも意をかえさずに、お茶を見つめてる。
「ねえ、外に出ない?」
「何を言ってるの?」
いきなりの提案。さすがに外に出るのは無理だ。
「だってさ、こんな日に自転車で走ってたら、もう、青春って感じじゃん」
言いたいことは分かるけど、さすがに……。
「風邪引くでしょ」
「いいよ。風邪引いても。一人で走って、帰ってきて。……それで風邪引いて。瑞樹くんにいっぱい迷惑をかけてやろう。だって、世話するの好きでしょ」
「まあ、でも……そんなことは」
断言するように言われてしまった。〝まあ、でも〟となんとなく否定の言葉が出るが、実はそんなに玲佳の世話をするのは嫌いじゃないかもしれない。
「図星? 図星でしょ。それで、わたしが風邪を引くぐらいだったら、自分も一緒に行く! とか考えてるんでしょ」
「――ぁぁ―――ぅう」
先を見越したように言われてしまった。思わず情けない声が出る。
「じゃあ、図星みたいだし。行くとしましょう」

3 冬。喪失感。

 1

秋が終わって、冬になった。
友達だった関係は少しは近づいただろうか?
なぜか僕は、玲佳にいいように使われて、お茶を入れるのは普通、泊まらされたり、ご飯を作らされることもあるようになった。

冬の空、夏よりも蒼く澄み渡る蒼穹、そこに浮かぶ白い綿雲。それに、キーンという飛行機の音が聞こえそうなほどにくっきりとした飛行機の軌跡――飛行機雲。
――そういえば、〝穹〟の字はいつからあるのだろう? 空に弓、この字があるということは、空が丸いと気付いていたのかな。
その空の下。僕は荷台に玲佳を乗せて空気の抜けて錆びついたママチャリを漕いでいる。坂道を走って、がっしゃがっしゃと不穏な音をたてている。ちなみに僕は座ったまま漕いでいる。なぜなら、玲佳が“二人乗りしてるときに、立ち漕ぎされると怖い”と言っているからだ。
「ふうっ、ふうっ……」
あまり無い足の筋肉を必死に動かす。酸素が不足している。冬の空気は冷たく、肺を刺すような感覚だけで酸素を感じない。〝明日は筋肉痛だな〟なんて、現実逃避に客観的に物を考えてしまう。ハンドルを握る手を締めなおし、歯を食いしばる。さらに、がっしゃがっしゃと軋ませながら勢いを上げる。――坂の頂上が見えた。少し気が緩み、自転車が揺れた。
そのとき、玲佳が僕の肩においていた手をこわばらせた。ぎゅう、と握られた肩がむずがゆく、力が抜ける。精一杯漕いでいた自転車は頂上を目前に倒れた。
「――あわぁ!」
玲佳は自分で飛び降りた。僕は自転車の下敷きになった。「――つっ……」幸い厚着をしていたので血は出ていない、怪我もあまりしていない。あまりだけど、痛いけど。

そういうわけで、情けなくも玲佳に残りの道を漕いでもらい図書館へ……。
まだ軽く痛い脚をついて図書館を回る。僕がそうしているとき。玲佳は机で宿題を片付けている。

そして、しばらく経って。
図書館で二時間ほど過ごし、僕たちは玲佳が行きたいといっている本屋に行くことにした。一応、痛みが引いたので僕が自転車を漕ぐ。
自転車を漕ぐこと十分弱。僕たちは目的の本屋についた。
玲佳が本を探している間、僕は棚の周りを歩き回っていた。

そこで、僕は、何かに会った。

――それは、どこか何も無いところから現れ、
圧倒的な音で僕を薙いだ。

僕は何かになり、漂っていた。
音が其処彼処に走り回り、弾ける。
そこは海のようで、沢山の島々が浮かび、それら一つ一つがデフォルメされたもので、嫌というほど漫画的表現。半球型の島に芝が生え、真ん中には曲がったやしの木が生えているといった感じだ。
その中の一つ。
やはり半球型の島で、島には火山が乗っかっていた。
それは、その小さい可愛らしさに不釣合いなほど、赤々と滾り、沸々と溶岩が沸き立ち、しかしそれは音ばかりで温度を感じない。それを覆すほどに、圧倒的な音があった。
ぐらぐらと沸き立ち、気泡が上がり、目を可笑しくしそうなほどに赤い。赤い赤い赤い。どこからか漏れ出した溶岩が海へ流れ込み、蒸気を上げ、音を上げる。
やはり、視覚に訴え、圧倒的なもの。温度を感じさせないくせに、一つ一つ鮮明で生々しい。
炎を体系する音たち。
僕はそれにかどわかされ、滾り、滾った心は抜けるように、唐突にもとに戻った。

「――瑞樹?」
肩をぽんぽん。叩かれた。
おそるおそる。といった感じ。僕の顔をのぞきこんだ玲佳は汗をかいている。
何で?
「ねえ、見た? あの、あの……」
言おうとしているけど、言葉が出ない。
「うん」
たぶん、今見た〝あれ〟のことを言っているのだろう。
「ねえ、どうしよ、どうしよ……!」
混乱しているのか。僕にもなんて声をかけていいのか分からない。
「え、えっと。えっと。だいじょうぶ。大丈夫」
何が大丈夫なのか分からないけど言ってみる。
玲佳はそれに応えるように、僕の袖をぎゅっと握った。

あれから、急いで帰った。もちろん僕が漕いだ。
振り落とさないぐらいに、バランスを崩さない程度に、走り、玲佳の家に行った。なぜか、無意識に。この辺り、癖になってるな。って、後で気付いた。
中に入り、とりあえず落ち着く。僕がお茶を淹れているあいだ、玲佳はベッドに座ってずっと貧乏ゆすりをしている。
キッチンに立ちながら、“玲佳の家に来たらお茶を淹れる”というのが、半ば条件反射になってるな……。という雑感を得たり……。あまり緊張感が無い。
しゅこしゅこ、薬缶が鳴っている。時間優先で味に手間をかけずに淹れる。
「電源ぐらいつけたら?」
「うん……」
放心状態で応えられる。お茶を出して、ヒーターの電源を入れる。電熱線が軽い音を立てて赤熱する。玲佳のほうを見れば、手に湯飲みを持ったまま微動だにしない。顔をうつむかせ、瞼を伏せる。顔に掛かる前髪を鬱陶しがろうともしない。やがてゆっくりと湯のみを口に運ぶ。お茶を啜る音が空虚に響く。でも、真っ青だった顔は段々と色を取り戻してきた。うれしい。
「うん、どうしようか……?」
「さあ、見当も」
本屋で見つけた〝あれ〟だろう。言ったとおりにまったく見当がつかない。
どうしようも出来ないし、どうすることも出来ない。
「じゃあ、何がしたい?」
何の意思をもって訊かれたか分からない。答えも分からない。
考えを放棄しているのではなく。
「何がしたいのかわからないし、一応忘れるしかないと思うけど……」
「それは無し」
「何で?」
「後悔するから。あんな珍しいもの見たのに忘れるなんて出来ない」
「じゃあ、追いかけてみれば。〝あれ〟が何か分かるまで」
玲佳は一瞬考えて……。
「じゃあ、そうする」
けっこうあっさり、すんなり決めた。
何かを思い立ったのか。ベッドの反対側にある押入れを開けて、中から麻袋の包みを取り出した。口を縛っている紐をほどき、中身を取り出す。
それは大きく黒光りする、重厚な鋏だった。
樫材で出来ていて、よく磨かれた把手。黒く光る金属で出来た刃に、銀に光る留金。それらには細かい模様と象嵌が成され、しかし、見かけだけではなく実用性もある。
玲佳はそれを開き、がしゃんと凶悪な音を立てて空間を切った。
まるで、気迫が伝わってくるかのように。僕はたじろいだ。
「これなんかいい武器になるんじゃない?」
「何で武器が?」
「いいから」
言いくるめられた。それをいいことに鋏を閉じたり、開いたり、して遊んでいる。
適当に何回か遊んで、飽きたのかまた袋にしまう。そういえば大きな鋏は銃刀法違反だったような気がする。
気付けば、なんだか玲佳の顔色は随分とよくなって、ほとんど元通りになっていた。

2

遠くからパチン、パチンと鋏の音がする。音的にたぶん剪定ばさみのはず。玲佳に散々鋏の話をされたから覚えている。
玲佳の家が見えてきたのでペダルを漕ぐ脚を停め、自転車を惰性で走らせる。からからとタイヤが音を立てている。玲佳の家の庭に自転車を滑り込ませる。停める。庭の鉢植えを剪定していた手を止め、こちらを振り向く。
「遅かったわね」
「時間より五分も早いよ」
「いや、デートの前の男性は浮き足立って、必要以上に早く来るものよ」
何をいけしゃあしゃあと。これから出かけるのはデートなんてものじゃなくて、よく分からないのじゃないか。大体どこに行くかも決めてないし……。
「いや、男と女が二人で出かけたらそれはデートだ」
「――!」
なぜか考えを読まれているような言葉。本当に読まれてるの?手に持っていた剪定ばさみをぶらぶらと、バタフライナイフをそうさせるようにしている。ぶらぶらさせていた鋏を縁側に置いて、そこに放置されていた麻の袋を手にとった。
もちろん中身はあの鋏。
だらっ、っとしていた顔が怜悧に引き締まる。この二面性も玲佳の好きなところだ。
羅紗ばさみと美理容ばさみの間のような形をした――鋏。
それをかしゃかしゃと動かし二つに分けた。二枚の刃を両手に持ち確かめるように振り、元に戻し、袋にしまう。
「じゃあ、行こうか……」
「うん……」
なぜか習慣になるつつある二人乗り。僕が漕ぐ。
「どこに行くの?」
「前に行った廃工場」
少し間を開いて思い出す。台風の日に行ったところか。
「道、覚えてる?」
「覚えてない」
「じゃあ、教えるから、その通りに行って」
「分かった」
自転車が走り出す。
僕はなぜ、昨日玲佳を止めなかったのか。あの時止めていればと思うことになった。
まあ、最終的に後悔はしてないけど、
「――そこ右に曲がって」
僕の肩に手を置いて指示を送る。その通りに行ってたら、いつの間にか工場についていた。
あの時の廃工場。古びた外観、しかし壊されていない。きっと、この建物が持つ、なんというか……恐怖? 見たいなものがあるみたい。怖い。
戸の前に自転車を停める。玲佳が飛び降りて、少しだけ自転車は揺らいだ。
最後にぎしりと音を立てて、自転車は止まった。スタンドを下ろし、鍵をかける。玲佳はいつの間にか中に入ろうとしていた。僕は慌ててカゴがら鞄と麻の袋を取り出して駆けていく。
いつの間にか蹴倒されていた戸は元通りになっていた。
袋を受け取り、「じゃあ、行くよ」そう、自分に言い聞かせるようにも、僕に話しかけているかのようにも聞こえる声音で言った。
把手を掴み軋む扉を開ける。ガリガリとコンクリートの地面が削られる。蝶番は随分と錆びていた。下にも削られた跡が随分とある。
中は暗かった。
――しかし、

――じゃらん、じゃらん……じゃらん、じゃらん……

“硝子のカーテンを揺らす音がする”

玲佳が呟いた。
広い工場で呟いたその言葉は無限に反射し、そのうちに消えた。

――がらんがらんがらん……がらんがらん

つるした木魚と木魚をぶつける音のように聞こえる。
もしくはバリ島辺りの楽器のような。

僕の目は暗闇で見えない。
遠くから……、
――ぱきん。澄んだ金属の音。鋏を二つに分ける音だ。
――ひゅっ。鋏が風を切る音。
――きりきり。拮抗し悲鳴を上げる金の音。
それに、どこかノイズ質な音が低く響き続ける……。
――がこん。どこかで金属のへこむ音がした。
時々、金属が弾け、火花が跳ぶ音と光が閃く。
僕の後ろには、開いたドアから陽光が差し込んでくる。
工場の奥のほうは見えない。
とても、とても暗い空間。それと、音たち、その奔流。
――何かが立てる硝子の音、木魚、鋏、金、風を切る、低く響くようなノイズ音……それに、瞬き閃く光。
拮抗する力と音はそのまま、しばらく響いていた。

音、音、音……。

風を切り、火花を散らし、空間をゆがめる。澄んだ金属音に、重く鈍った金の音。
ノイズ質の何か。
線をかき消すような玲佳の動きが火花に照らされ、見えた。
拮抗する近田の均衡が崩れ、それは、やがて玲佳のほうに収斂していった。
鋭利な切っ先と刃を持つ鋏の片端は、ノイズ質の何かをしっかりと捕らえ、断ち切った。
――ぶぅん、と。揺らぎ、消え去った。

奥のほうから、息を切らした玲佳が戻ってきた。
鋏を一つに戻し、腕に下げている。
ほんの短時間のことだったのに随分と消耗しているように見える。
肩で息をしている。はあはあと呼吸に合わせて上下する肩口……。脚を引きずり、僕のほうに倒れてきた。
慌てて受け止める。とさり、と小さな衝撃。やけに軽い。
「帰るよ。自転車出して……」
まさしく虫の息といった感じで言われた。こんな状態であっても意思をたたえた瞳。強く命令している。
「はい……」
うなずく。
あまり動かさないように、自分で動こうとしない玲佳を運ぶ。鋏を手から抜き取り、麻袋にしまいなおし、荷台に乗せ落ちないようにと、僕の腹の周りに腕を巻きつける。疲れのためか、家に帰るまでに寝てしまったようだ。時々、段差を踏むたびに身体がずれる危なっかしい感覚がした。

玲佳を自転車で運び、背負って中に入った。中に入ることが出来たのは僕が合鍵を持っているからだ。こう言うと恋人みたいだけどそんなことは無い。ただ、“気が向いたら、ご飯でもつくりに来て”と言われて、鍵を押し付けられただけ。
ベッドで寝ている玲佳はものすごく静か。普段からテンション高かったり、低かったり。今は最も低いときと同じぐらい静か……。寝ているんだから当たり前だけど。
寝言は当然、寝返りも打たないし、息をする声も静かだ。僕はすることが無い。
しばらく起きそうもないし、だから、まだお茶も淹れなくていいと思う。
背後ではヒーターが、電熱線を低くうならせ、じりじりとした熱さを撒き散らしている。脱いだコートもそこら辺に置いてある。僕のは座布団の脇に、玲佳のはいつもほうっている辺りに。
部屋が暗い。帰ってから雨が降り出した。ヒーターの赤々とした光が眩しい。
でもどうしようか? 玲佳が起きた後なんて声をかけようか……“おはよう”“だいじょうぶ?”“元気?”“お茶淹れる?”いくつか浮かぶけど、どれもがどれも白々しい。
一瞬、手紙でも置いて帰ってしまおうか……とか思ったけど、すぐに頭を振ってその考えを追い出す。そんなことをしたら、玲佳は悲しむだろうか? 少しだけ、真剣に考えた。
立ち上がり、窓に向かう。

……雨

              ……雨
    ……雨
  ……雨

               ……雨

      ……雨

                           ……雨

ひたひた? ぱたぱた? ぽたぽた? いまいち正しい擬音が分からない雨垂れの音に耳を傾ける。冬の雨は冷たいけど、はげしくない。突き放すようだけど、優しい感じ。
「………………」
なぜか、川端康成の俳句が頭をよぎる“仕事をしたる”云々“何とかの疲れ”なんとかかんとか“息もつかず”……国語の授業でやったきりなのでいまいち思い出せない。
ずっと立っていたら疲れた。座布団に座りなおそうと思ったけど、やめた。
ベッドで寝ている玲佳に近づく。
ほんの少しだけ息をして、胸を上下させている。
眠り姫のようにこんこんと眠っている。
眉を少しだけぴくりと動かし、唇も少しだけ動かし、微かに声を上げ、いづらそうにしていた瞼が少しずつ開かれた。
その時僕は玲佳の顔を覗き込んでいて、起き上がった拍子に額と額をぶつけた。ごちんと火花が散る勢いで。
「いったぁ……」「くぅ、つっ……」
お約束にもほどがある。そう思いながら玲佳のほうを見ると、白い額を押さえ、伸屈をするような姿勢でうずくまっていた。赤くはらした額を押さえ、潤む瞳で僕をじっとみる。潤んでいるのは痛いからか、寝起きだからか?
「うぅ、」
なぜか一拍置き、いづらそうにして顔を寄せていた僕の肩を押し離れさせる。ボブカットの髪を人差し指でいじりながらはにかむように、
「お茶淹れて」
間をもつように言われた。
「はい……」
気恥ずかしく、そそくさとキッチンに入ってしまう。うしろを見ると玲佳は額だけじゃなくて頬まで林檎の赤を薄くしたような色をしていた。
なぜか半年のうちに慣れてしまったキッチン。今ではどこになにがあるかはっきりと分かる。言われたとおりにすぐに淹れて出す。
お盆において出したそれを受け取って、目を合わせようとすると、そらそうとして、またあわせようとすると「なによ?」と言ってにらまれる。
それから、今日のことについて話した。あれがなんだったとか、どうすればいいとか、あの音は何だとか……。
そのうち玲佳は泣き出した。なぜか。
嗚咽が漏れて、涙をながす。白い頬を真珠のような雫がつたう。僕は慰めようとしたけど、大して何も出来なかった。

3

音、音、音。
暗い建物の中で音が響いて、時々火花が閃く。
僕は廃工場の入り口に立ちほうけ、待つ。
玲佳が中で戦って音や火花が弾ける。
音、音、音――。
廃工場の奥から響いてくる風のうなる低い音や玲佳と〝何か〟が立てる高かったり、低かったりする音。――それらが無限に反射し、ぼやけた音が満ちている。
終わるまで待っている。ここで突っ込んでいっても悲しいことに何も出来ない。玲佳に〝近づいちゃいけない〝とも言われているし。
僕は自転車を漕ぐのが仕事だ。肩に掛けた鞄と厚ぼったいダッフルコートが衣擦れの音を立てる。その無粋な音に身震いする。邪魔しているような気がするからだ。
待っている間は何も出来ない。動くことも出来ないからじっと考えているだけだ。
玲佳は戻ってくるだろうか? たぶん戻ってくるはずだ。〝怖いか?〟と訊かれたらどうだろうか? たぶん、少しだけ躊躇っても〝怖くない〟って言えるはず。玲佳が戻ってくるのを信じてる。――なんて言うわけじゃないけど……そう思ってる。
僕が信じていた玲佳は工場の奥から戻ってきた。
いつものように顔は褪めて、足下はおぼつかず……肩で息をしたまま倒れてくる。僕は急いで鞄からお茶の入った水筒を出してお茶を注ぐ。
倒れている玲佳に渡す。少しこぼしながらそれを飲む。少しだけよくなった顔で僕に手と目線で合図をして自転車まで連れて行けという。
そのまま、落っことさないように家に帰ってしばらく寝る。荷台に乗っている玲佳は僕の腹に手を回し背中に寄りかかるようにして眠ってしまう。帰るときに人に見られるとけっこう恥ずかしい……。
三十分ほどの距離を漕いで玲佳の家に着く。合鍵でドアを開けて玲佳を背負って中に入れる。ベッドに寝かせてお茶を淹れて起きるのを待つ。
そのあと適当に話でもして、解散。
これがいつもの何かと会ったあと。
どこか見るような感じで玲佳が言っていた〝こうしてるのは、なんとなく幸せ〟僕も幸せだ、なんとなく、なぜか。

どことなく怖い。
なぜか今日は心配だ。
今日もまた学校帰りにあの廃工場に来ている。
なんとなく怖いのだ。玲佳が奥のほうで戦っているけど、なぜか怖い。
怖い音が一瞬歪んで、ぷつりと消えた。バイオリンの弦が切れてしまったように。
――とさ。と軽い音がして、そのあとに金属を落としたような硬質な澄んだ音がした。
〝近づいちゃいけない〟って言われてるけどつい行ってしまった。
一瞬立ち尽くして、しゃがみ、様子を見る。――玲佳が倒れている。
顔は白い顔は更に白く、蝋のよう。夕日のように赤い唇は褪めて青灰色の雨雲のように……。
水筒からお茶を出す、注いで飲ませようとする。半分開いたまま固まっている唇に流し込む。カップの中のお茶は減っていき、口から溢れる。唇から、頬へ、喉へ、首筋へ。温かなお茶は線を引き、滴る。
僕は玲佳を見て何も出来なくなった。慌てて、脈を診るなんてことも出来なかった。何も出来なくなっていた。玲佳を背負って外に出ようとする。夕空の光が僕の目を刺す、立ち眩む。混乱する頭で玲佳を運び自転車を出す。
落っことす寸前の速度で自転車を漕ぐ。膝が震えてしっかり漕げないけどそれでも、急ぐ。
いつもより十分ぐらい早くついた。急いで鍵を開けようとするけど、手が震えて鍵は鍵穴を捉えない。たっぷり時間をかけて鍵を開けて、戸を閉めることも忘れて、中に担ぎ込む。
ベッドの上に寝かせ、ヒーターのスイッチを入れる。部屋を暖めなくては! 寝かせている玲佳のコートを脱がせ布団をかける。かけたままの眼鏡を取って卓袱台の上に置く。
玄関を閉めていないことを思い出して、閉めに行く。――そうだ、お茶を淹れなきゃ。キッチンに行ってお茶を淹れる。
鍋と薬缶を取り違える。鍋に水を張って沸かそうとしていた。薬缶に水を入れなおしてコンロに掛ける。待っている間がいやに冗長で苛立つ。早く淹れようとして、お湯が沸ききるのも待たずに急須にお湯を注ぐ。微かに湯気を上げるお湯。そうだ、茶葉を入れていない。急いで茶筒から葉を取り出して淹れる。温度が低くなかなか抽出されない。ゆるゆると緑色づき、湯飲みに注ぐ。お盆にも載せずに行くと、玲佳は寝ている。
愕然とする。
寝たまま全然動きもしない。
どうすればいいのか分からない。
卓袱台に湯飲みを置いて、そのまま。
何も出来ず突っ伏す。腕を枕にして、まどろむように時間が過ぎる。半分意識を失ったままでいるといつの間にか部屋は暗くなっていた。どうしようか。立ち上がってみる。湯飲みを見ると既に湯気は上がらなくなり、液体も緑の色を強めている。
帰ろうかと思ったけど、帰れない。仕方なく家に〝今日は帰れない〟とメールを送る。しばらくして鳴ったけど。無視。どうせ〝何故か〟という内容だろう。一応帰れないとの旨を伝えたので、いいことにする。
「はふぅ……」
電気もつけていない暗い部屋で溜息をつく。
玲佳のほうを見ると、さっきとあまり変わっていない。
きちんと息をしていて、すうすうと薄く寝息を立てているし、布団も僅かに上下している。
「はふぅ……」
またさっきと同じような溜息をついてしまう。
顔色はさっきよりもよくなっている。
「ぐず……」
いつの間にか泣いていたのか、目の周りが痛くて、鼻が水っぽい。「ぐず」ともう一回鼻を鳴らす。
机の上においてある鏡を見ると目は見事に赤くなっていた。それを見るとまた涙が出てきた。ほろほろと涙が伝い、流れる。「うぅ……」少しだけ呻き声を上げる。畳の上に倒れて瞼を閉じる。
寝てしまおう。玲佳が起きるまで寝てしまおう。

ぼやけた視界。重たい瞼。腫れた目と赤い鼻。じっと寝ていた卓袱台から頭を起こす。押し付けていた頬の部分が熱い。たぶん寝ながら泣いていた。「ぐす」鼻を鳴らして涙が右の瞳から流れる。すぅと流れたほんの小さな一片の涙。零れ落ちる前に頬の上でせき止められしまう。
立ち上がって玲佳のほうを見る。
やっぱりまだ寝たまま。
頬は少しだけ色がよくなったけど、あとは全然変わらない。前と同じ姿勢のままピクリとも動かず、でも、息をしてるのは分かる。
ほったらかしにしていた湯飲みを持ち上げる。ひんやりとした陶器の感触。これも死んでいるみたい。白い色が玲佳の頬みたいで冷たさが一層感じられる。
背後のヒーター、赤い光が薄い陰を作る。
また涙が流れる。鼻がツーンとして、眼窩の奥が痛む。はらはらと声を上げた泣きたくなるほど流れる。「――ぅ―――ぁ」こらえているのに、喉の奥から小さな吃音が漏れる。
呻く、小さな、声にならない。こえ。
湯飲みの中に入ったお茶を一気飲みする。――苦い。喉を冷たいお茶がすり抜ける。気持ち悪い。湯飲みを両手で握って暖めようとする。頭の片隅で〝なに湯飲みなんかに感情移入してるの?〟と言う声が聞こえる。少しだけ握る力が落ちる。そのまま畳みの床に座り込む。
「ぐず……。あぅ、……」
鼻を鳴らしたり、声を漏らしたりする。それでも、頭の片隅には冷静なままの部分がある。なぜだかそれが寂しい。
またそのまま寝てしまおうと思ったけどやめる。
台所に行って湯飲みを洗おう。そう決めてふらふらとした足取りでキッチンに向かう。
板張りの床が冷たい。そう思っても何もしようとしない。足がじんじん痺れて痛くなっても気にならない。
蛇口をひねって水を出す。かけてあったスポンジを手に取り、中を濯いでからスポンジで洗う。
床と同じく水も冷たい。指先が痛くなってもやはり気にならない。洗い終えたら乾燥かごに置く。急須を洗っていないのを思い出して中を適当に濯いで、またかごに置く。
「はふぅ……」
溜息をついてしまう。別につきたいわけじゃないのに。洗い終えたら、急に寒くなった。居間に戻ってヒーターの前に座る。手をかざし、足を近づける。
指先がじんじんと温まる。それでも満たされない。
暗い部屋で滾る電熱線の赤々とした光が、目を刺激する。
こうして僕が温まっていて、少しでも幸せな気分になっても玲佳は起きない。
それじゃあ、意味が無い。――そう思ってみる。
だって、玲佳が喋んないんじゃつまらない。
いつもみたいに、横柄に喋ってほしいし、命令もして欲しい!
ふてくされたように倒れこみ、座布団を手繰って枕にする。そのまま寝ようかと思ったけど、寒くて寝れそうに無い。ヒーターの前にもっと身を寄せて、丸まる。でも、それでも寒い。
どうしようもなくて、玲佳の布団の中に入ろうか? とか一瞬思ったけど、慌てて頭を畳に打ちつけ、忘れようとする。そんなことを思いついたら、本当にしてしまいそうで困る。寝てるし、起きそうに無いし……。なんて……。
仕方ないから妥協策として玲佳のコートを拝借する。もし、目を覚ましたときに玲佳が起きていたらどうしようか? なんて思った。起きてきたら困るけど……絶対起きてきて欲しい!
それだけ考えてあとは寝ることにする。コートに包まったら玲佳の匂いがして、それだけでなんか幸せな気分。

 4

瞼越しに光がにじんでくる。
ぼんやりした頭で考える、朝かな? 刺すような光が窓硝子を通して伝わってくる。ちゅん、ちゅんと雀の鳴き声が聞こえてきそう。
目を開けて映った梁をぼんやりと見つめる。それから目をそらして、壁のカレンダーを見る。一月遅れだ。時間と曜日を見ようと携帯を取ろうとする。腕を動かそうとしたけど動かない
はた、と。自分の身体を見ると。コートにくるっまっていた。
そういえば、昨日玲佳のコートを借りて……。
思い出したら顔から火が出そうだ。
「うゎあ……」
溜息とも呻き声とも言うような、情けない声が出た。
寝たときよりもきつく身体に巻きつけていた。急に恥ずかしくなって、周りを見渡す。玲佳は起きていない。寝たまま。よかったけど、残念だ。
玲佳が起きていないことをいいことに、コートを羽織ったまま立ち上がる。卓袱台の上に置きっぱなしだった携帯を取る。フリップを開くと、12/13(金) 1:21 32 と表示があった。朝も通り越して昼だった。
「ふぅ」
短く吐息する。
足下を見てみれば、ヒーターが点けっぱなしだった。〝いけない〟と思って消そうとしたけど、寒いのでやめる。
台所に向かう。
シンクの前に立つ。また「ふぅ……」と、ついた。〝幸せが減るなぁ〟とか思いながらもついてしまった。
蛇口をひねって水を出す。蛇口から水が溢れる音に、ステンレスに叩きつけられる水の音。流れる音に耳を傾け、しばらくの後、手で水を掬う。〝冷たい!〟指先が水に触れた瞬間ひるんだ。それでも、ゆっくりと水に手を通す。両の手を結んで作った器に水が掬われ、手と手の間から真砂が零れるように、流れていく。全部流れてしまったので、もう一回掬いなおし、勢いよく顔に当てる。水がはじけて、飛び散る。何度も掬って、ばしゃばしゃと顔に叩きつける。
適当に顔を拭って、居間に戻る。拭いきれなかった水滴が髪や顎からはたはたと滴る。
その一滴がコートに垂れて、弾けた。
玲佳の様子を見ようとベッドに腰掛ける。しき、とマットレスが小さな音とともに沈み込む。
小さく起伏の少ない顔。その顔をもっとよく見ようと僕の顔を近づける。普段、あまり近くで見たことの無い玲佳の顔。薄く開いた唇。普段から白いけど、今はそれ以上に真っ白な肌。額にかかる、細く、滑らかな黒髪。繊細な睫。小さな鼻。度がきつく、小さな目を大きく見せる銀縁の眼鏡。そういえば、眼鏡をかけたままだった。危ないと思い外す。蔓が耳に引っかかり小さな小さな抵抗を感じる。後引きながら外し、たたんで卓袱台の上に置く。
眼鏡を外したところをあまり見たこと無いので、なんだか別人みたいだ。
いとおしい。心底そう思って、顔を近づけようとする。
でも、もっと近づけたら突然玲佳が起きてしまうような気がした。起きてほしいのだけれども……。
そう思っていても玲佳のことを見てしまう。――いけない! って思って、ベッドの上から飛びのく。
立ち上がって、そのままどうすることも出来なくなって、立ち尽くしていたら、いたたまれなくなって衝動的に家を飛び出していた。
廊下を走り、玄関を飛び出て、戸を荒く閉じる。それで、自転車のスタンドを上げようとしたところで、鍵を閉めていないことに気がついた。仕方なく、鍵を閉めにいく。――こういうところは律儀だと思う。それで、鍵を締めた跡で玲佳のコートを着たまんまだということに気がついた。もう一度、家に入るのが億劫だ。そう思って、肩に掛けていたままだったコートに腕を通す。悲しいことに身長があまり変わらないから、大きさがあっている。仕方ないから借りていってしまおう。ちょっとだけ嬉しい。
今度こそスタンドを上げて自転車に跨る。かごの中には鞄が入れっぱなしだった。
勢いよくペダルを踏み込み走り出す。最初は座っていたけど、立ち漕ぎをはじめる。速度は次第に速くなり、風を切り、髪をゆらし、コートの裾をはためかせる。冬の鋭い風が目に入る。少しだけ涙がにじみ、それを皮切りに涙が溢れてきた。「ぐす、ぐす――」右手で目を拭っていたら、タイヤはアスファルトの上の小石を踏んでバランスを崩した。ぐらり、と右に傾く。
――危ない! と、とっさにハンドルを切るも、片手なので上手くバランスを取れずに力を入れすぎ、左にこけた。身体は投げ出され、叩きつけられた。
ざらざらとしたアスファルトにモロに打ちつけられた左手の甲は擦り傷で赤くただれたようになり、アスファルトの小石が張り付いている傷口はなんとも痛々しい。
痛みと、なんともいえない気持ちになって、声を上げて泣きたくなる。近くには誰もいないし、泣いちゃおうか? とも思ったけどやめる。
自転車を起こして、のろのろと走り出す。傷の手当てをしなきゃいけないと思い、一度自分の家に帰ることにする。
寒く、寒く、冷たく、凍てつくような風が傷口を刺激する。じんじんとした痛み。ただでさえ痛いのに、この仕打ち。寒いのに傷口だけは赤熱したように熱を持っている。
「ぐず……」
ひどく惨めな気分だ。
まるで僕だけが何かに取り残されたような。孤独な気分。

自転車はやがて家に着いた。
今何時だろうか? 家に人はいるだろうか? 時間はたぶん三時前ぐらい、家には姉ちゃんがいるかも。まあ、居ても母親じゃないだけましか……。そう思って、自転車を止めて鞄を取り、中に入る。
ドアのノブに手をかけて、回してみる。かちゃり、と音を立てて回る。ゆっくりとなるべく音を立てないようにドアを引く。その間にも左手の傷は痛み、気を散らす。ドアはゆっくりと余韻を残すような音を立てて、開いた。こっそりと中を窺うと、玄関のところには姉ちゃんがいた。
「あんた、なにやってるの?」
あまりにもタイミングが悪い。
どうするべきか? 何も無かったことにしてドアを閉めるか。それとも、堂々と入るか? 考えていたら先にドアを開かれた。
「中入れば?」
ドアを開けながらブーツを履いていて、片足でバランスを取りながら、右手で把手を掴んで平衡を取ろうとしている。そんでもって、片足立ちしている足で踵を見事にすべらせ、尻餅をついた。
ごんっ、と鈍い音がしそうなぐらいの勢いだった。
「いったぁ――――っ」
尻をかばってうずくまっている。スカートの中が丸見えだ。大して気にもならないので、怪我してないほうの手をさしのべる。
「……………」
無言で恥ずかしそうに手を取って立ち上がる。
「?」
一瞬だけ訝しげな目をして、僕のほうに顔を寄せると。そのあと嬉しそうに目を細めて、左手の傷を見て絶句した。
なんと表情豊かなのだろうと思いながら見てると、左手を取られた。
そのまま、履きかけだったブーツを脱ぎ捨て、框の奥に引き込まれた。
「痛い、痛い! そんなに引っ張らないでよ……」
「いいから!」
怒られた。引っ張られながら流し台のほうへ連れられ、冷水で傷口をじゃぼじゃぼ洗われる。
「痛い! 痛いよ!」
「いいから!」
さっきと同じ科白を言われる。
傷口が冷水に当てられてつきつきとした鋭い疼痛に見舞われる。半分泣き目になりながら強制的にやられる。
傷口の黒い部分が落とされ、傷口は赤くなり、血が薄い褐色のような靄をのこしながら流れる。姉ちゃんは蛇口をひねって水を止める。同時に血は流されなくなり、鮮やかな赤を水ににじませる。
手首をぎゅっと握られ止血をされながら今度はティッシュのある場所に連れられる。
乱暴に箱から二、三枚引き抜き傷口に当てられる。止血していた手は外され、勢いよく血と水の混合液が吸い取られ、ティッシュを真っ赤にする。
ティッシュがもう液を吸いきれなくなったころ、姉ちゃんは食器棚の上から救急箱を取って中をまさぐっていた。ガーゼと包帯を取り、もう一度ティッシュを傷口に当て血を吸う。
それを吸い終えたら、左手で止血をしながら、右手で器用にガーゼを当てる。
慣れたような手つきで手際よくしっかりと包帯を巻かれた。この間〝いいから!〟しか喋っていない。されるがままにしていたらしっかりと、止血され、包帯は巻かれていた。
「よし、いいよ」
「うん」
そういわれて、手を握ったり、開いたりする。まだ疼痛は残っているけどもう大丈夫みたい。
「ありがと」
「うん……」
姉ちゃんは何か言いたそうにしていたけど、
「じゃあ、出かけてくるから」
「分かった。行ってらっしゃい」
どたどたと出て行ってしまった。なぜだか少しだけ背中が寂しそうに感じた。
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